なぜマルタン・マルジェラは、生きているうちに自分のアーカイブを手放したのか
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- 2 日前
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更新日:6 時間前
著者:Eat Well · Feel Well · Live Well 編集部

Photo: © Niña Slavcheva
絵の具の跡が残る白い仕事着に、本人の手で記された「Martin」の文字。2026年7月9日、パリで競売にかけられたのは、完成した服ばかりではなかった。マルタン・マルジェラが手元に置いていた、創作の日々の痕跡である。
Maurice AuctionとKerry Taylor Auctionsが共同で開催したこのオークションで、彼は個人アーカイブの一部を売却した。全195ロットが落札されたと報じられている。
しかし、ここで目を向けたいのは値段よりも、その決断だ。自らの仕事を物語る品々を、なぜ本人が生きている今、手放すことにしたのか。
服の作り手が顔を見せず、その手が使っていた道具は人前に現れる。この取り合わせに、マルジェラという人物を知る難しさと面白さが凝縮されている。本人が残したものをたどると、売却はひとつの結末であると同時に、彼の仕事を読み直す機会にも見えてくる。
顔を隠し、服の裏側を見せた人

Photo: © Marc Chatelard
マルジェラを語るとき、匿名性は避けて通れない。パリの服飾美術館パレ・ガリエラは、彼を公の顔を持たず、ブランド名のない白いラベルを用いた作り手として紹介している。一方、その服は、裏地や肩パッド、しつけ糸など、通常は完成の過程で隠されるものを見せた。
本人は前に出ないのに、服ができる仕組みは前に出す。そこには、見る側の関心をどこへ向けるかという選択がある。
きれいな表面だけを見れば、服は完成された商品である。しかし裏地や縫いかけのような部分に目が留まれば、誰がどのように組み立てたのかを考え始める。身につけるものだった服が、観察し、問い直す対象にもなる。
同館は、古着や回収した素材を一点物へ作り替える「アーティザナル」、見つけた古着を忠実に再現する「レプリカ」も、彼の重要な仕事として挙げている。
古いから終わり、完成したからそれ以上は触れない。そのような区切りを、これらの服は揺さぶる。過去の品物は、新しい発想の材料にもなりうる。
そうした人物のアーカイブであれば、知りたいのは代表作の一覧だけではない。どんなものを残し、どんな順序で考え、何を繰り返し作っていたのか。今回の競売には、その問いに近づく品々が含まれていた。
手放す理由は、受け取る人にあった
売却に寄せた声明で、マルジェラは長年アーカイブを移動させ、展覧会に貸し出してきた経緯を述べている。熟考の末、収集家や機関に喜びをもたらせるという考えが、送り出す決め手になったという。
この説明には、残してきたものをどう扱うかという、ごく具体的な問題がある。保管には場所が要る。展示のためには移動も要る。大切に持ち続けることにも、仕事が伴う。
ただし、本人が保管を負担と感じていたとまでは、この声明から断定できない。決断を後押ししたものとして明示されているのは、受け取る人の存在である。
手元に置いてきた品物が、誰かにとっては研究の資料となり、別の誰かにとっては創作を知る入口になる。その可能性が、所有を続けることとは別の価値を持ち始めた。本人の説明からは、そう読み取れる。
白い仕事着が、誤解を解く

Photo: © Angelina Johansson
出品された白い仕事着は、今回の売却を象徴する一着だ。
カタログによれば、1988年のメゾン創設時、スタッフは白いコットンの仕事着を着用していた。マルジェラ本人は、それがオートクチュールのモデルが仮縫いの合間に着るものや、アトリエで働く人々の服をもとにしていたと説明している。
ところが、外からは「実験室の白衣」と呼ばれた。本人は、それは意図とは異なると述べ、自分が関心を寄せていたのは伝統と前衛の対比だったと明かしている。
同じ白い服でも、実験室を想像するか、クチュールの仕事場を想像するかで、見えてくるものは変わる。
この一着を通して浮かぶのは、伝統を参照しながら新しい表現を試みる作り手の姿だ。絵の具の跡が残る服に本人の説明が添わることで、広く知られたイメージの奥にある意図へ近づける。
生前に自らアーカイブを送り出す意味は、ここにもある。品物だけでなく、それが何であったのかを語る言葉も、一緒に渡せるのだ。
白い電話機に書かれた、覚えられない番号

Photo: © Angelina Johansson
同じ白でも、出品された電話機には、また違う話がある。
1988年頃の回転ダイヤル式電話は白く塗られ、本体には黒いペンで電話番号が書き込まれていた。カタログの説明で、マルジェラは番号を覚えられなかったため、自分で直接書いたと明かしている。
徹底した世界観と、覚えられない番号のメモ。それが一つの物に同居している。
白を選んだ背景も具体的だ。当時広く見られたコンクリートグレーや黒のデザイン家具と違うものにしたくて、反対の白を選んだという。壁、床、家具を覆う布から電話機にまで、その色を行き渡らせた。
白を純粋さや神秘の象徴として説明することもできるだろう。しかし本人の言葉から聞こえるのは、周囲と同じにしたくないという造形上の判断と、日々の仕事の都合である。ひとつの電話機が、ブランドを包む抽象的な言葉を、生活のある場所へ引き戻す。
出品物には、メイクや髪型のための五枚のスケッチもあった。使われていたのはペン、色鉛筆、修正液、貼り付けた写真。紙の上で複数の手段が組み合わされている。
服の写真だけでは、そこに至る仕事は見えにくい。スケッチが加わると、髪や顔を含め、一つの姿をどうつくろうとしていたのかが見えてくる。アーカイブの価値は、完成した名品の希少性に限られない。制作途中の小さな判断を読むことにもある。
だから、個人の持ち物という出自が意味を持つ。これは誰かが市場で集めた「マルジェラらしいもの」の集積ではなく、本人の手元にあった品々だ。評価されてきた作品の隣に、仕事のための道具や紙が並ぶ。その距離の近さが、今回の売却を独特なものにしている。
過去は、しまっておくだけのものではない
アーカイブには、過去のコレクションを着想源として、後年に作られたものも含まれていた。
例えば、1989–90年秋冬コレクションに基づく服をまとったバービー人形。黒いウールのコートに、銀色に塗った革のタビを合わせたその衣装は、マルジェラが2020年頃に制作したものとされる。
かつての服を、別の大きさで、別の時代に作り直す。ここでは過去が保存されるだけでなく、再び手を動かす対象になっている。
年月順に並べられた経歴とは違い、一体の人形は、作り手が過去の仕事とどのように関わり続けていたのかを伝える。完成品の発表年だけを追っていては見えない時間が、そこにある。
だからこそ、今回の売却を「過去との決別」と言い切るのは早い。手放す品々そのものが、過去に繰り返し触れ、作り直してきたことを示しているからだ。
ファッションの外でも続いた創作

Photo: © Angelina Johansson
このアーカイブを所有していたマルタン・マルジェラは、ファッションを離れた後も、別の領域で創作を続けていた。
2021年、パリのLafayette Anticipationsでは、マルジェラ初の個展が開催された。彫刻、インスタレーション、コラージュ、絵画、映像など、20点を超える作品が紹介され、来場者が非常口から会場へ入るなど、建物そのものの体験も組み替えられていた。
服がどのように構成されているかを問い続けたデザイナーは、アートの空間でも、物がどのように見られ、どのように出会われるのかを問い直していた。
2019年の作品《VANITAS》では、髪と球体を用いて、一人の女性の人生における5つの段階を表現した。髪の変化を通して、時間の経過を可視化している。
もちろん、この作品だけを根拠に、今回のオークションを「人生の終わりを意識した行為」と解釈することはできない。ただ、身体や時間の移ろいというテーマが、ファッションを離れた後の創作にも引き続き存在していたことはわかる。
展覧会カタログにも、もう一つ興味深い共通点がある。マルジェラ自身が監修し、グラフィックデザイナーのIrma Boom、そして財団の編集チームとともに制作されたこのカタログでは、完成した作品の写真と、その制作途中にマルジェラ自身が撮影した写真が並べて掲載されている。
完成したものと、そこへ至る試行錯誤が同時に見える。
今回のオークションでも、完成した作品だけでなく、制作資料や仕事道具が一緒に並んだ。場所や形式は違っても、完成品の背後にあるプロセスまで見せるという姿勢は、共通している。
手放し方にも、作り手の意思がある

Photo: © Angelina Johansson
売却に伴う展示では、アーティスティック・ディレクションをマルジェラ自身が担い、会場構成にはボブ・ヴェルヘルストが名を連ねた。
何を残していたのか。それをどう見せ、どんな説明を添えるのか。彼は所有を終える場にも、作り手として関わった。
自分の過去を展示する仕事には、以前から関わっていた。2018年のパレ・ガリエラの回顧展でも、アーティスティック・ディレクターとして名を連ねている。
つまり、今回突然、過去を見せ始めたわけではない。展覧会で貸し出すことと、競売で所有を移すこと。その二つは、公開という点では接していても、本人と品物との関係を違うものにする。貸したものは戻ってくる。売却したものの次の扱いは、新しい持ち主の判断に委ねられる。
そこで気になるのは、作品に添えられた言葉の行方である。白い仕事着の由来も、電話機の番号の理由も、物だけを眺めていてはわからない。カタログに本人の説明が記されたことで、所有者が変わっても参照できる記録が残った。
それは、本人だけが知る由来を、他者が検討できる資料へ変える作業でもある。生きているうちに手放すことの意味は、別れの早さよりも、何を伝えてから渡すのかに現れる。
値段がついても、物語は確定しない

Photo: © Angelina Johansson
もちろん、競売で所有者が変われば、すべての品が一般に公開されるとは限らない。売却と公共的な保存は同じではない。それでも、本人の説明を伴って品々が紹介されたことは、その仕事を理解する手がかりを増やした。
また、落札価格が示すのは、その場で成立した取引の価値である。それだけで、創作上の重要さの順番が決まるわけではない。高値の代表作より、一枚のスケッチが制作の仕組みをよく語ることもあるだろう。
名品の価格だけを追えば、競売はブランドの人気を測る話になる。しかし仕事着、電話機、人形、スケッチを一緒に読むと、注目すべきものが変わる。何を美しく見せるかだけでなく、どう考え、どう働き、過去の発想とどう付き合ったか。そこに、このアーカイブの読み応えがある。
マルタン・マルジェラは、なぜ生きているうちに自分のアーカイブを手放したのか。
本人が語った理由は、受け取る人々に喜びを届けることにあった。そして今回の出品から見えてくるのは、手放す際にも、自分の仕事に言葉と形を与えようとする姿である。
アーカイブは、手放した瞬間に過去になるのだろうか。白い仕事着に添えられた説明や、後年に作り直された人形の服は、その逆を思わせる。誰かが見直すことで、過去の仕事には、まだ発見されていない意味が生まれうる。
彼はその続きを、自分だけの手元に置かなかった。
アーカイブとは
過去の活動や制作の過程を伝える作品・資料を保存したもの。本記事では、マルタン・マルジェラ本人が保管していた衣服、写真、デザイン画、仕事道具など、創作の歩みをたどる品々を指す。
Editor’s Note
ブランドの歴史をたどるとき、目を奪われるのは完成した名品である。しかし今回、作り手の姿を身近に感じさせたのは、絵の具のついた仕事着や、番号を書き込んだ電話機だった。
作品が生まれる場所には、日々の工夫や試行がある。それらを自分の言葉とともに送り出したマルジェラの選択は、何を残すかに加え、「どう伝えるか」も継承の一部なのだと考えさせる。
出典
Maurice Auction, Lot 16:本人の白い仕事着、1988–2008年。品物の状態と本人による説明。 https://mauriceauction.com/lot/180923/34095251-martin-margiela-maison-martin-margiela-1988-2008-blouse
Kerry Taylor Auctions, Auction Archive:開催日・会場の確認。 https://www.kerrytaylorauctions.com/archives/
FASHIONSNAP「【現地レポ】白熱のマルタン・マルジェラ私物オークション 落札総額は2.5億円超」(2026年7月11日)。195ロット落札の確認。 https://www.fashionsnap.com/article/2026-07-11/martin-margiela-auction-paris/
Maurice Auction, Martin Margiela – Archives Personnelles:本人の声明、共同開催、展示のクレジット。 https://mauriceauction.com/catalogue/180923



