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それ、人生の外部委託になってない?

著者:Eat Well · Feel Well · Live Well 編集部



「○○さんが、そう言ったから」


何かを決めた理由を尋ねたとき、この言葉が返ってくることがあります。


もちろん、人に相談することは悪くありません。知識のある人に教えてもらう。経験者の意見を聞く。自分にはできない仕事を、専門家に任せる。ひとりで抱え込まず、誰かの力を借りることは、生きていくうえで必要なことです。

けれども、考えることも、選ぶことも、その結果を引き受けることも、すべて誰かに預けてしまったら。


それはもう、相談ではなく「人生の外部委託」になっているのかもしれません。



「任せる」と「明け渡す」は違う

仕事で外部の専門家に業務を委託しても、通常、最終的な目的や方針まで相手に明け渡すわけではありません。


税務は税理士に相談する。法律は弁護士に確認する。ウェブサイトは制作者に依頼する。それでも、何のために会社を経営し、どこへ向かうのかを決めるのは経営者です。


人生も同じです。


知識や技術は借りられます。知らないことは教えてもらえばいい。迷ったときには、別の角度から見てもらうこともできます。


しかし、自分にとって何が大切なのか。どの負担なら引き受けられるのか。何を失ってでも守りたいのか。それを決めるところまで、他人に丸ごと渡すことはできません。


外から見れば同じ選択でも、それによって暮らしが変わり、時間を使い、お金を払い、感情を引き受けるのは本人だからです。


相談とは、判断材料を増やすことです。

意思決定の外部委託とは、判断の持ち主を自分以外にしてしまうことです。


この二つは、似ているようでまったく違います。



「あの人が言ったから」は、責任を避ける言葉になる

自分で決めなければ、間違えたときに傷つかずに済むような気がします。


失敗したら、「あの人が勧めたから」と言える。うまくいかなかったら、「私は言われたとおりにしただけ」と説明できる。自分の判断ではなかったことにすれば、責任から少し離れられるように見えます。


けれども、責任だけを手放して、決定権だけを残すことはできません。

自分で考えることをやめれば、失敗の責任だけでなく、人生の主導権まで相手に渡すことになります。


さらに厄介なのは、うまくいったときです。


望んだ結果を得たはずなのに、どこか自分の人生ではないように感じる。「成功した」という事実は残っても、「自分でここまで来た」という実感が残らない。結果だけを受け取っても、その過程に自分が参加していなければ、満たされないことがあります。



自分で決めるとは、誰の意見も聞かないことではない

自分の人生を生きる人は、何でもひとりで決める人ではありません。


むしろ、必要な意見を集め、わからないことを認め、自分より詳しい人の知恵を借りられる人です。ただし、集めた意見を自分の状況に照らし、最後に「私はこうする」と決めます。

他人の助言は、決定そのものではなく、決定のための材料です。


だから、誰かの言葉を採用するときにも、本来は自分の理由が必要です。


「あの人に言われたから」ではなく、「あの人の意見を聞き、今の自分には妥当だと判断したから」。


この一文に変わるだけで、意思決定の持ち主は自分に戻ります。


心理学の自己決定理論では、人が健やかに動機づけられ、成長していくための基本的な心理欲求の一つとして「自律性」が挙げられています。ここでいう自律性は、何でも単独で行うことではありません。自分の行動を、自分の意思として選び、納得している感覚です。

つまり、助けてもらうことと、自律していることは両立します。


誰かと一緒に考えてもいい。背中を押してもらってもいい。実務を任せてもいい。それでも、選択を自分のものとして引き受けている限り、人生の主語は自分のままです。



責任を負わない人に、意思決定権を渡さない

他人は、こちらの人生について驚くほど簡単に意見を言えます。


もっと挑戦したほうがいい。そんな仕事は辞めたほうがいい。結婚したほうがいい。離れたほうがいい。お金を使うべきだ。そんなことに時間を使うべきではない。

けれども、その助言によって収入が減っても、生活が変わっても、人間関係を失っても、毎日の現実を引き受けるのは助言した人ではありません。


意見を言う人と、その結果を生きる人は違います。

だからこそ、ひとつの線を引いておく必要があります。


私の生活の責任を負わない人に、私の人生の意思決定権は渡さない。


これは、人の意見を拒絶するための言葉ではありません。誰の意見を聞いても、最後の判断を他人の名前で済ませないための線引きです。


自分で決めたからといって、必ず正解になるわけではありません。考え抜いても失敗することはあります。選んだあとで後悔することも、途中で方向を変えることもあるでしょう。


それでも、自分で選んだ道なら、自分で立て直すことができます。


なぜその選択をしたのかを知っているからです。どこで無理をしたのか、何を見落としたのか、次は何を変えるのかを、自分の経験として考えられます。


失敗は、誰かを責めるための材料ではなく、次の判断をつくる知恵になります。



充実感は、正解の中にあるとは限らない

充実した人生というと、楽しく、成功し、問題のない状態を想像しがちです。


けれども、充実感は幸福や成功と同じものではありません。大変な時期にも、悲しみや怒りの中にも存在します。


自分で考えた。迷った。選んだ。我慢した。努力した。失敗した。必要ならやり直した。

その過程を自分で引き受けてきたとき、人は「私は自分の人生を生きている」と感じられるのではないでしょうか。


充実感とは、いつも正しい選択ができたという証明ではありません。


自分の人生に、自分が参加している感覚です。


完成した結果だけなら、誰かの指示どおりに動いても手に入るかもしれません。しかし、そこに至るまでの判断、葛藤、工夫、立て直しは、自分で生きなければ手に入りません。

それらは外から簡単に与えられない代わりに、外から簡単に奪われるものでもありません。



人生の主語を、自分に戻す

誰かに相談したあと、最後に一度だけ自分へ問いかけてみる。


「では、私はどうしたいのか」


誰かの意見を採用するなら、「なぜ私はそれを選ぶのか」と言葉にしてみる。

その答えが出たとき、同じ選択であっても、それはもう他人に決められた人生ではありません。自分で選び直した、自分の人生です。


人に頼ってもいい。知恵を借りてもいい。任せられる仕事は任せればいい。

ただし、考えること、選ぶこと、その結果を引き受けることまで、まとめて誰かに渡していないか。


迷ったときには、少し立ち止まってみてください。


それ、人生の外部委託になってない?



参考資料

  • Richard M. Ryan & Edward L. Deci, “Self-Determination Theory and the Facilitation of Intrinsic Motivation, Social Development, and Well-Being,” American Psychologist, 2000.

  • Edward L. Deci & Richard M. Ryan, “The ‘What’ and ‘Why’ of Goal Pursuits: Human Needs and the Self-Determination of Behavior,” Psychological Inquiry, 2000.

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